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2016/10/10 Pick upにプランの情報を追加いたしました。

ホテル本能寺の歴史と今

大本山・本能寺に訪れる法華宗信徒のための宿泊提供施設を発端とし、京都を訪れる修学旅行生が同じ宿で全校生徒が過ごすことのできる規模の施設を作りたいという考えのもと、昭和35年の会社設立を経て昭和37年3月より営業を開始。以後、現在に至るまで全国各地の子供たちに修学旅行の想い出を提供しています。

当時の京都には、1つの学校の修学旅行生が全員泊れる宿泊施設が無く、複数の宿泊施設に分宿している状態でした。
そんななか、一施設で一校全生徒を宿泊させることのできるホテル本能寺が誕生。
修学旅行の先駆者として、現在に至るまで積極的に修学旅行生の受け入れを行ってきました。

現在

現在は、過去から変わらぬ京都の中心部で連綿と続く修学旅行生の宿として、また、京都の旅館らしい和のおもてなし、ホテルとしての機能性を併せ持つ、『和のホテル』として、修学旅行以外のお客様にも幅広くご利用いただいております。

本能寺の歴史

本能寺は1415年の昔より、日蓮大聖人の教えを弘め、度重なる受難に屈することなく再建・復興を果たし、歴史の大きな変革のなかにありながら庶民信仰の中心として大きな働きをしてきた法華宗本門流の大本山です。

歴史年表

1415年
第一の建立
妙本寺の綱紀の粛清に努めていた日隆聖人が、その志を遂げられず妙本寺を去り、油小路高辻と五条坊門の間の地に寺門を開き、本応寺と号した。
1418年
月明上人の命により妙本寺の教徒によって破却される
1429年
第二の建立
小袖屋宗句の援助により内野(現在の西陣辺り)に本応寺を再建
1433年
第三の建立
如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立
1433年
第三の建立
如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立
1536年
天文法乱にて延暦寺の焼き討ちに遭う
1545年
第四の建立
日承聖人(第12代貫首)が四条西洞院に建立
1582年
本能寺の変にて焼失。信長公自害
1592年
第五の建立
日衍聖人(第14代貫首)により再建、秀吉の命にて現在地に移転
1788年
天明大火で焼失
1840年
第六の建立 日恩聖人(第77代貫首)再建
1864年
蛤御門の変にて焼失
1928年
第七の建立 現在の本堂再建

寺??

本能寺の看板やパンフレットなどの「能」の文字が皆さまのよく知る「能」という漢字と違うのはご存じですか?
これは本能寺が度重なる火災に遭ったために「『ヒ』(火)が『去』る」という意味を込めてこの字を使用することにしたと言われています。

本能寺と織田信長

日本で最も有名な戦国武将である織田信長は、優秀な政治手腕や戦績はもちろん、大胆不敵な行動やある種の魅力的な人柄でも大変人気があります。
織田信長が死ななければ日本の歴史はもっと違っていたかもしれない、そんな織田信長が家臣・明智光秀に討たれ炎のなか自害した最後の地が本能寺です。

信長が本能寺を上洛中の宿所としていた理由

織田信長が、京都へ上洛するにあたって本能寺を宿としていたのはなぜだったのでしょうか。主な理由は三つあると言われています。

天皇家とのつながり

信長は、征夷大将軍といった官位を与えることができる伝統的・絶対的な権威をもつ天皇家に、つねづね近づきたいと考えていました。
本能寺に滞在して本能寺の住職で天皇の親戚であった日承上人に仏教の教えをうけ、天皇家とのつながりを築こうと考えていたようです。

防衛

当時の本能寺は東西約140メートル、南北約270メートルとかなり広く、幅約2~4メートル、深さ約1メートルの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居(土の垣)に囲われていたことが発掘調査などでわかりました。
敵も多い信長にとって、防衛面でも安心できたと考えられています。

鉄砲と火薬

本能寺は早くから種子島で布教していたため、鉄砲や火薬の入手などで戦国諸大名と深い関わりをもっていました。信長は境内地の安全を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易の手助けを促しており、本能寺の利用価値を見い出していたと考えられます。

織田信長肖像画(本能寺蔵)

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺に宿泊中の織田信長は、臣下である明智光秀に襲撃されます。
100名あまりの臣下が応戦し、信長も弓と槍をもって戦うものの、負傷し火に巻かれたため切腹。遺体は見つかりませんでしたが、信長及び信長の嫡男・信忠も自害したことにより織田政権は崩壊します。
しかし信長を討った光秀も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、時代は大きく動きました。
長く続いた戦国の乱世が終息に向う契機となったという意味で、日本の歴史上とりわけ有名な事件です。
また、光秀が謀反を起こした理由については野心や怨恨、陰謀など諸説あり、日本史上「永遠のミステリー」とも言われています。

三男・信孝建立の信長公廟

無念の田信長??

日本史上、あまりにも有名な本能寺の変。修学旅行でお泊まりいただく生徒さまのなかには、「本能寺やホテル本能寺には、織田信長や家臣たちの無念の霊がさまよっているのでは…?」とご心配になられる方も、少なからずいらっしゃいます。
しかしご安心ください! 本能寺は、その「本能寺の変」で焼失したため、秀吉の京都改造によって場所を移転しています。また、本能寺には「信長公廟」があり、命日の6月2日には「信長公忌」と呼ばれる法要が行われ、しっかりとご供養されております。

本能寺と豊臣秀吉

「本能寺の変」の後、主君・織田信長を討った明智光秀を速やかに討伐し、その後の織田家内部の勢力争いにも持ち前の度量と機転で勝利した豊臣秀吉は、信長の後継の地位を得た上で、日本中の大名を従え天下統一を果たしました。
その後、秀吉は多くの政策をもって順調に日本国内の統合を進めていきました。

豊臣秀吉の京都改造と寺町通

秀吉の天下となっていた天正18年(1590年)、応仁の乱で焼け果てすっかり変容した都を整備する際に、秀吉は都に点在していた寺院を一つの地域に集めました。それが現在の寺町通りです。
寺院の数は北は鞍馬口通りから南は五条通りまで80以上。それらを商売相手とした数珠屋・筆屋・奉書屋などの店が集まり、寺町通りは賑わいを取り戻しました。 寺院を一か所に集めた目的は、税の徴収の効率化と、東の御土居に沿うように寺を配置することで、東から進入する軍勢の戦意の低下をねらうという防衛のためだったと言われています。 本能寺もこの時、中京区元本能寺南町から現在の寺町通りへと移されました。当時は現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地をもつ大きなお寺でした。

上御霊神社の石碑

この前の…応仁の??

応仁の乱は、室町時代の1467年から約10年間にわたり将軍の跡継ぎ争いなど複合的な理由により有力な守護大名が争ったことで、足利幕府の衰退が加速し、戦国時代に突入するきっかけとなった内乱です。
長きににわたる戦乱によって、京都全域が壊滅的な被害を受け、驚くほど荒廃してしました。
ちなみに、1200年余りの歴史と伝統を誇る京都では、太平洋戦争時の被害が少なかったこともあったためか、「京都で“この前の戦争”といえば“応仁の乱”のことを指す」というジョークがあります。

本能寺と幕末の動乱

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて対抗勢力に勝利した徳川家康は江戸幕府を樹立しました。260余年という永きにわたった平穏な江戸時代は、社会的、文化・芸術的にも成熟し発展していきます。
日本は政策により海外との接触を制限していましたが、その間、産業革命などを経て力をつけた世界各国の情勢はめまぐるしく変化していました。
1853年、ペリー率いるアメリカの艦隊(黒船)が来航して以降、攘夷、尊王、開国、保守、倒幕など様々な主張をもった人々が薩摩や長州、会津、土佐といった各藩から現れ、その主義主張のために、国内での争いが多発していきます。

蛤御門の変(禁門の変)

京都御所蛤御門にある弾痕

1864年8月20日、御所の西側にある京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し戦闘が勃発。長州勢は京都御所内に侵入しましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退、落ち延びる際に長州藩屋敷(中京区一之船入町・ホテル本能寺より北東)に火を放って逃走し、会津勢も長州藩士が隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃し市街戦が繰り広げられました。
戦闘そのものは一日で終わりましたが、この2箇所から上がった炎で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至るまで広い範囲の街区や社寺を巻き込み、本能寺もこのとき焼失。被害を受けた家屋は約3万戸と言われる大変な被害となりました。
蛤御門の変(禁門の変)と呼ばれるゆえんは激戦地が京都御所の蛤御門周辺であったためであり、現在も門の梁に弾痕を見ることができます。

ホテル本能寺近隣の幕末の史跡

京都に残る幕末に関する史跡を、ホテル本能寺の近隣を中心にご紹介します。

池田屋跡

幕末の京都は政局の中心地となり、諸藩の浪士が潜伏活動をしており、新選組は市内の警備や捜索を行っていました。 情報活動と武器調達をしていた古高俊太郎を捕えた新撰組は、御所に火を放って要人を暗殺し天皇を誘拐する計画を入手、さらに長州藩・土佐藩・肥後藩がその計画を実行するか中止するかを協議する会合が池田屋か四国屋で開かれること突き止めます。 捜索の末、池田屋で浪士を発見した新撰組がたった4人で掃討しました。 この後、事件によって激高した長州藩によって蛤御門の変(禁門の変)が起こされ、きっかけともなったこの事件を「池田屋事件」と呼びます。 当時は旅館でしたが、現在は廃業しており「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑を見ることができます。

アクセス
ホテル本能寺より徒歩4分

長州藩邸跡

山口県の萩城(萩市)に置かれていた萩藩と、幕末に周防山口の山口城に移った周防山口藩を総称して「長州藩」と言います。 幕末には、桂小五郎(後の木戸孝允)などにより、おもに京都での討幕運動の中心として勢力を強めていきました。 下関海峡と通る外国船を砲撃する下関戦争や、池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた上での幕府の長州征伐などで疲弊しますが、坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結び、以降は伊藤博文(初代内閣総理大臣)、山縣有朋(3代内閣総理大臣)などの政治家を輩出し、日本の政治に大きな影響を与えます。 蛤御門の変(禁門の変)で敗走し京都を脱出する際、焼き払った長州藩邸跡は、現在、ホテル本能寺の北東の桂小五郎の像と近接して「長州屋敷跡」の碑を見ることができます。

アクセス
ホテル本能寺より徒歩2分

近江屋跡

坂本龍馬はそれまで定宿していた寺田屋が急襲(寺田屋事件)されたため、近江屋へ移りました。 1867年12月10日夜、中岡慎太郎とともに話し合いをしていた坂本龍馬は刺客に襲われ額を斬られた後、さらに後頭部から背中にかけて切られ殺害されました。実行犯は、新撰組、京都見廻組など諸説ありわかっていません。 現在は当時の近江屋の北隣に「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っています。

アクセス
ホテル本能寺より徒歩7分

ご宿泊予約

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